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みなみらんぼうのスローライフ
2003年〜2005年まで日経新聞夕刊に大好評
連載された“みなみらんぼうのスローライフ”が
帰ってきました。
ある人はなつかしく、又ある人は新鮮な共感を持って
らんぼうワールドをお楽しみください。
 母優子が84歳で亡くなった。
母といっても義理の母である。
中学1年で生みの母を亡くしたあとに、父の後妻として入った。
僕が13歳、弟は10歳、そして妹はまだ3歳だった。
義母は初婚だったが、南家に嫁いだときは38歳であり、子供はなかった。
 母は東京生まれの東京育ち。
歯科医の娘で日本女子大出の、いわゆる才媛(さいえん)だった。
戦争疎開で宮城県若柳町に来て、そのまま兄の歯科医院に居候していた。
そんなわけで縁ができた。
 弟に言わせると、ある日女の人が突然やって来て「これからは私があなた方のお母さんよ」と言ったので、何がなんだか
分らないうちに、一緒に住むようになった、という。
長男の僕は再婚を知らされていた。
思春期の盛りにいた僕は「関係ないや、父の人生だもの、勝手にやって」と一歩引いていた。
しかし3歳の妹には母は必要だった。
 異邦人のように母は苦労した。
お嬢様育ちなので囲炉裏やかまどの火が扱えなかった。
風呂の焚(た)きつけができなかった。
畑に出ても雑草と間違えてホウレン草を抜くし、逆に大根一本抜けなかった。
 近所のおばさんたちが、笑いながらも一つ一つ教え、母は根気強く学んだ。
母が一番苦労したのは言葉だという。
話した瞬間に「この人は違う」って、区別されるのよ、と苦笑していた。
これは最後まで直らず、入院のときですら、隣のベッドの人に「奥さんはどこの生まれですか?」と言われたという。
東京人のプライドを死ぬまで失くさなかったのだと思う。
  それでも「私はしあわせだったわ。
子供たちみんながどう育つか、とてもハラハラして、ただ見ているだけだったけど、立派に育ったし」と妹に話してあの世に
旅立った。
 僕が東京、弟はシンガポール、そして妹は仙台と、離れて暮らしていても、生家に帰れば一つになれるような気がしていた。
しかし今や住む人のない生家が哀れである。
家に別れを告げるとき、家族が若く元気だったころの、さざめきが聞こえたような気がした。
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